織田信長

織田信長(おだ のぶなが)(Oda Nobunaga)
(生年1534年、没年1582年)。戦国時代~安土桃山時代の戦国大名。父は織田信秀。母は土田御前。弟には織田信勝らがいる。子には織田信忠信雄、信孝ら。
家臣には柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉明智光秀らがいた。
那古野城で誕生。斎藤道三の娘の濃姫と結婚。尾張国の敵対勢力を倒していき、侵攻してきた今川義元桶狭間の戦いで破った。その後徳川家康と同盟を結び美濃など各地を攻略し領土を拡大していった。しかし、いわゆる信長包囲網が形成され信長は苦戦することになる。数年がかりでこの敵対勢力を徐々に潰していった。長篠の戦い武田勝頼に勝利した後に安土城築城した。畿内を中心に強大な勢力となったが、家臣の明智光秀の謀反により本能寺で自害した(本能寺の変)。

幼名は吉法師。織田信秀により那古野城の城主となる。元服後に、織田と敵対していた斎藤道三の娘の濃姫と結婚する。1552年に信秀が死去したため信長は家督を相続する。しかし尾張国内の対立が起きる。平手政秀が信長を諌めるためか自刃する(理由は不明)。1556年に斎藤道三がその子の斎藤義龍との戦いで死亡。林秀貞や柴田勝家らは信長の弟の織田信勝の擁立を目指し行動し信長との戦いが起きる。結果は信長の勝利となる。信勝は再び謀反を企てるが柴田勝家は信長に味方しており信勝は殺害された。
1560年に今川義元が尾張に侵攻(今川軍は2万5千とも、4万とも)。松平元康(後の徳川家康)も今川軍の先鋒となっていた。圧倒的寡兵の信長は情報を集めて今川軍を桶狭間の戦いで破り今川義元を討ち取った。戦後に今川氏から独立した徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)。小牧山城に移動。
翌年に道三の息子の斎藤義龍は若くして死亡しその子の斎藤龍興が後を継いだ。信長は浅井長政と同盟し妹のお市を長政と結婚させている。信長が西美濃三人衆安藤守就ら)を味方につけたこともあり斎藤龍興は美濃から敗走した。井の口を岐阜とした。
足利義昭と連絡をとっていた信長は岐阜城下で会う。1568年に足利義昭を奉じて上洛の軍を進発する。14代将軍足利義栄を擁立していた三好三人衆らは降伏や逃亡などし、松永久秀は信長に降伏した。そして信長は足利義昭を第15代将軍に擁立した。翌年、三好三人衆らは足利義昭を攻撃するが失敗(美濃にいた信長はこのとき急ぎ京に戻ったという)。信長は足利義昭のために二条御所を造営する。堺には矢銭を要求して支払わせている。そして信長は主に畿内やその周辺を中心に勢力を拡大していく。

1570年に従わない朝倉義景を攻撃するが同盟をしていた浅井氏が信長に背いたために窮地に陥る。配下の木下秀吉(後の豊臣秀吉)や明智光秀のしんがりで信長は退却した(金ヶ崎の退き口)。同年に浅井氏を攻撃し姉川の戦いが起きる。徳川家康との連合軍となった織田軍は浅井・朝倉連合軍に勝利した。石山本願寺も信長に対抗するようになり、長島でも信長に対する一向一揆が起きる。浅井・朝倉とも敵対状態の信長は劣勢となるが、勅命を出してもらい敵対勢力と和睦した。
1571年に朝倉らに味方した比叡山焼き討ちした。1572年に武田信玄は織田の岩村城や織田と同盟関係にあった徳川家康を攻撃する。三方ヶ原の戦いで信長は家康に援軍を送るも武田信玄に敗北した。
しかし信玄は翌年病死する。信長に反旗を翻していた足利義昭を信長は追放した。信長は朝倉氏攻略に出兵し一乗谷城の戦いで勝利した。味方に裏切られた朝倉義景は自刃した。さらに浅井氏攻略がされ浅井久政と長政は自刃した(小谷城の戦い)。信長の妹のお市や娘たちは脱出して信長のところに戻っている。その後、長島一向一揆を攻撃し制圧した。

1575年に武田勝頼軍に対して織田・徳川連合軍は長篠で戦い勝利した(長篠の戦い)。そして信長は越前を織田から奪っていた本願寺勢を攻撃して攻略した。
上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺や紀州の雑賀衆らが信長に敵対していた。松永久秀も信長に謀反をするも鎮圧されて自害した。上杉謙信も1578年に病気のためか死亡した。荒木村重が信長に謀反を起こした。1581年からは武田勝頼攻めが本格化、翌年の1582年には勝頼の親類の木曾義昌が信長に寝返る。そして徳川氏や北条氏なども加えた各方面から武田氏を攻撃、武田軍は次々降伏していき勝頼は子の信勝と自刃したという。羽柴秀吉は中国地方攻略をしており、柴田勝家は北陸方面を攻略をしていた。そして長宗我部元親のいる四国攻略も始まろうとしていた。
信長は徳川家康を安土城でもてなした。羽柴秀吉からの援軍要請により京の本能寺に逗留(家康は堺へ)。その本能寺に信長配下の明智光秀が謀反し攻撃をしかけた。信長は建物に火を放って自害したという。

<その他の情報>
織田信長は桶狭間の戦いのような寡戦をしていることはあまりない。基本的に相手より多数の兵を使って戦争していることが多い。
本能寺の変が起きる前に織田信忠に家督を譲っている。しかし、織田信忠も本能寺の変後に大した間もなく二条御所で明智光秀軍と戦い死亡している。
信長は傅役の平手政秀の死後に政秀寺を建てて菩提を弔っている。
織田信長配下の森蘭丸も本能寺の変で信長と共に明智光秀軍と戦い死亡したという。

<織田信長のパーソナルデータ>
生年月日 :1534年6月23日
死亡年月日:1582年6月21日

<子供>
長男:織田信忠(嫡男。本能寺の変で二条御所にて死去)
二男:北畠信雄(北畠具房の養子となった)(織田信雄
三男:神戸信孝(神戸具盛の養子となった)(織田信孝)
四男:羽柴秀勝(羽柴秀吉の養子となった)
五男:津田信房(遠山景任・武田信玄の養子となったが後に離縁となった)
六男:織田信秀
七男:織田信高
八男:織田信吉
九男:織田信貞
十男:織田信好
十一男:織田長次
(とりあえず男子を列挙)

<関連ワード>
三英傑(織田信長、豊臣秀吉徳川家康
長篠の戦いでの三弾撃ち
第六天魔王
(義元)左文字(今川義元が持っていた刀)
小牧山城
岐阜城
安土城

<関連映像作品>
国盗り物語 (NHK大河ドラマの主人公
信長 KING OF ZIPANGU (NHK大河ドラマの主人公

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
非常に高い能力を持つ人物として描かれることが多いか。尾張の大うつけと言われていたということが多いようだ。

<織田信長に関連する祭り>
第62回「ぎふ信長まつり」 2018年10月6日7日に岐阜市で開催。岐阜市役所のホームページ



“織田信長” への7件の返信

  1. 戦国武将の履歴書とか戦国三大武将の経済学とか撮りためておいたの見てるけどなかなか面白いな。

  2. 桶狭間の時に織田と今川では最大動員兵力にそれほど差がないという話しがあったよね。

  3. 尾張に対して、駿遠三の今川とそう差がなかったというね。
    あと、勝負飯もしてたよね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です