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伊達政宗

伊達政宗(だて まさむね)。(Date Masamune)。
生年1567、没年1636。戦国時代~江戸時代前期の大名。父は伊達輝宗、母は最上家の義姫。子は秀宗、忠宗ら。
配下には伊達成実、片倉景綱、留守政景、支倉常長ら。
幼名は梵天丸。1584年に父の輝宗が隠居したために若くして家督を相続。しかし、輝宗は畠山義継に拉致されてしまう。政宗は追撃して義継らを鉄砲で殺害した(輝宗もこの時死亡)。佐竹氏などの南奥州大名らが連合軍を組んで政宗と敵対し人取橋で戦った。危機に陥るも家臣の助けや翌日の佐竹氏の撤兵により窮地を脱した。
畠山氏の二本松城を攻撃して入手するなど勢力を拡大するが、1587年に中央で強大な勢力を擁した関白の豊臣秀吉の惣無事令が発せられる。政宗は大崎攻めをするが叔父の最上義光が大崎方についたこともあり敗北。蘆名氏にも攻められる伊達氏は非常に苦しい立場となるも、伊達氏と最上氏、伊達氏と蘆名氏の和議が結ばれる。翌年の1589年に摺上原の戦いで蘆名氏を破り蘆名氏は滅亡した。それからも政宗は勢力を拡大する。
豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。政宗は秀吉配下の浅野長政から参陣を促される。政宗は参陣することにし、小田原に到達して秀吉に服属した。そして北条氏は秀吉に降伏した。文禄の役に従軍した。
秀吉の後に関白となっていた豊臣秀次が秀吉から疑われる。政宗も秀次と親しかったためか疑われるが最終的に難を逃れた。

秀吉が死にその子の豊臣秀頼が後を継ぐ。1599年に徳川家康の六男の忠輝と正宗の娘の五郎八姫が婚約。1600年に家康は上杉景勝討伐の兵を挙げる。その留守を狙い石田三成や大谷吉継らは兵を挙げ、毛利輝元を家康に対する総大将とする。そして関ヶ原で家康・福島正則・黒田長政ら東軍と石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継ら西軍の決戦がおき東軍が勝利した。このときに政宗は家康方につき行動するも旧領をほとんど取り戻せなかった。政宗が和賀忠親による一揆を扇動したためか勝利による恩賞は与えられなかった。
戦後は居城を仙台に移し、仙台藩の初代藩主となった。1613年には支倉常長ら慶長遣欧使節を派遣した。
1614年の徳川氏と豊臣氏の戦いである大坂冬の陣では徳川方として部隊を率いる。翌年の夏の陣では道明寺の戦いなどをするが、真田信繁(幸村)の攻撃により後退。この戦いは徳川氏の勝利に終わった。そして子の伊達秀宗に領土が与えられた(伊予の宇和島藩)。
家康死後は二代将軍となった徳川秀忠に、その後も三代将軍家光まで仕え病死した。子の忠宗が仙台藩二代目藩主となった。

<その他の情報>
死因は癌だったという話もある。

<関連ワード>
独眼竜

<関連映像作品>
独眼竜政宗 (NHK大河ドラマの主人公

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
やはり遅く生まれてくる。非常に能力の高い人物として描かれることが多い。アクションゲームによっては英語をしゃべることも。

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