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劉備

劉備(りゅうび)。字は玄徳(げんとく)。(Ryubi Gentoku)。中国後漢末期から三国時代の人物。三国時代の蜀漢の皇帝となった。子は劉禅、劉永ら。配下には、関羽張飛諸葛亮龐統趙雲黄忠馬超魏延、糜竺、法正らがいる。

黄巾の乱鎮圧のため義勇軍をつくり名をあげ後に各地を転戦した。陶謙から徐州を譲ってもらうが呂布により奪われる。一時は曹操の元に身を寄せていたこともあったが離れ、戦うようになる。荊州に移った劉備は諸葛亮を三顧の礼によって迎え入れ天下三分の計を説かれたとされる。
曹操軍の南下により劉備は孫権と同盟を結び、孫権軍とともに赤壁の戦いで勝利する。しばらくして荊州牧となる。龐統を配下にし蜀を手に入れ漢中の地も曹操から奪い、漢中王を称するようになった。その後、荊州を守っていた配下の関羽が軍(孫権軍)によって捕縛・処刑される。
漢の皇帝が皇位を曹丕に禅譲したことに対し、劉備は皇帝に即位する。軍を率いて呉軍を破りながら進むが、夷陵の戦いで呉軍の陸遜の策により大敗。退却した先の白帝城で死去した。子の劉禅が後を継いだ。

<その他の情報>
劉表のところにいたときに的盧という馬に乗っていたという。

<三国志演義では>
桃園の誓いで関羽雲長や張飛益徳と義兄弟の契りを結んだ。曹操の荊州攻略の前哨戦となる夏候惇との戦いでは諸葛亮の作戦で大勝利している(正史では諸葛亮ではなく劉備の指揮)。劉備は正史と演義での描かれ方が違うことが多い。演義では部下に助けてもらいながら大きくなっていく。
劉備は桃園の誓いをしてから黄巾党(首領は張角)を攻撃。苦戦することもあったが撃ち破っていき黄巾党の重要な軍のひとつである張宝軍を破っている。漢皇帝をないがしろにする董卓に対し反董卓連合軍ができ劉備たちはこれに参加。関羽は連合軍が苦戦していた華雄を討ち取る。董卓配下の猛将の呂布が連合軍を攻撃した際には張飛・関羽・劉備がこれに立ち向かい呂布は退却した。
曹操が漢帝国の実権を握りだし専横をし始めると皇帝は曹操討伐の密勅を董承に出す。董承は仲間を集め血判状を作り馬騰や劉備もそれに署名した。曹操は劉備を警戒し雨の中で酒を酌み交わし英雄を論じながら様子を探る。このとき劉備は曹操に警戒されていることを知りわざと雷に怯えたふりをして警戒を解こうとした。この後曹操は油断して劉備に兵を貸し与えるが、劉備はそのまま独立してしまう。
曹操に攻められて妻や関羽・張飛らと離れ離れになってしまうが、劉備が袁紹のところに身を寄せていることを知った関羽は劉備のもとにいくために曹操のもとから離れる。関羽は関所破りをしながらも張飛と合流し劉備とも合流した。劉備を慕う趙雲も合流し荊州に移動した。

荊州の劉表を頼っていたときに張虎を討伐する。この際に的盧という馬を手に入れる。この馬は実は凶馬であると伊籍に教えられるがそのまま乗り続ける。その後、劉表配下の蔡瑁に襲われ危うい目に遭うがこの的盧が檀渓を跳び劉備は追撃をかわすことができ助かっている。
劉表によって与えられた新野で徐庶を見出す。曹操配下の曹仁が劉備軍を攻めてきたが徐庶の策によりこれを撃破する。しかし徐庶は母のために劉備のもとを去ってしまう。その時に諸葛亮のことを教えられる。劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を迎え教えを乞う。配下にしてからも朝に夕に相談した(水魚の交わり)。曹操配下の夏候惇が10万の大軍をもって劉備を攻めてくるも諸葛亮はこれを撃退。本腰になった曹操は南下を始め荊州攻略を図る。その先鋒の曹仁軍を諸葛亮は策をもって撃ち破った。しかし、曹操の圧倒的な大軍の前に劉備は自分を慕う新野の住民と共に南へ移動する。住民連れで移動の遅い劉備軍を曹操は見逃さず追撃をした。これにより劉備軍は散り散りになり、劉備の子の劉禅も一時行方不明になったが趙雲によって救われている。張飛の時間稼ぎや関羽の援軍により劉備軍は九死に一生を得た。
荊州を手に入れた後も曹操軍の南下は続き、曹操は呉の侵略を考える。呉の魯粛が劉備のところに来て諸葛亮が呉に赴く。そして諸葛亮は呉の孫権を説得する。劉備・孫権連合軍は龐統らの活躍もあり孫権軍の周瑜の指揮のもと赤壁の戦いで火攻めにより曹操軍を撃破して勝利を手にした。劉備軍も敗走する曹操軍を追撃している。この後に劉備は荊州の曹操軍を攻撃し呉の周瑜より先に各地を手に入れる。さらに長沙なども手に入れて劉備は荊州を手に入れた。龐統が劉備のもとを訪れるが才能に気づかず田舎の県令にする。龐統が政務を滞らせたために劉備は張飛に視察を命じる。龐統は張飛の目の前で仕事を次々と終わらせて張飛を驚かせた。これを知った劉備は反省し龐統をあらためて迎えた。これにより伏龍鳳雛(諸葛亮と龐統)が劉備にそろうことになった。
蜀の乱れを憂慮した劉璋配下の張松が劉備に地図をもたらし、蜀をとることを劉備にすすめる。劉備は最初は渋っていたようであったが、龐統らのすすめもあり蜀の民を救うため蜀を攻撃する張魯軍と戦うために蜀に入った。しかし、劉璋は配下から劉備に警戒するように言われ劉備を冷遇しだしたために劉備は怒り蜀攻略をする。龐統らとともに軍をすすめ勝利を重ねるが龐統は伏兵に遭い若くして戦死してしまう。劉備はこれを大いに悲しんだ。劉備はこの後も蜀攻略を継続。諸葛亮は関羽を残し張飛や趙雲らと共に劉備の援軍として蜀に入り劉備と合流。劉備らは張魯軍として劉備と戦いに来ていた馬超を降し、これを知った劉璋は劉備に降伏した。これにより劉備は蜀を手に入れた。

漢中を支配した曹操に対して漢中攻略を開始し、曹操軍を撃ち破り漢中を手に入れて漢中王を称した。しかし、ややもして荊州を守備していた関羽が呉の呂蒙によって捕らえられ殺害される。これを知り大いに悲しんだ劉備は呉に報復を考える。配下のすすめにより皇帝となった劉備は呉征討を命令するが張飛が自らの部下によって殺害され首が呉に持ち去られてしまう。劉備は張飛の子の張苞や関羽の子の関興を率いて呉征討を開始し連勝しながら進み、関羽・張飛の仇を討ちながら進撃を継続。呉の孫権は陸遜に迎撃を任せこれによって蜀軍は持久戦に持ち込まれ夷陵の戦いで大敗北してしまった。劉備は諸葛亮の策と趙雲の合流によって救われて白帝城に戻るが、そこで最期を迎える。劉禅と諸葛亮を呼び寄せて後事を託して世を去った。
正史と比べてその人徳によって部下たちに助けてもらうことが多いのが三国志演義の劉備のようである。

<関連ワード>
三国志の三国(蜀漢
三国志演義
三国志平話
桃園の誓い
劉備三兄弟(劉備関羽張飛

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
多くの人物に好かれる非常に魅力的な人物として描かれることが多いようだ。剣を二本持っていることも。

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