北条氏康

北条氏康(ほうじょう うじやす)。生年1515、没年1571。通称は新九郎。戦国時代の相模国の大名。父は北条氏綱。子は北条氏政、北条氏照ら。
氏綱の死後家督を継いで後北条氏三代目当主となった。駿河の今川義元や上杉憲政・上杉朝定などの北条と対立する勢力が挙兵したために氏康は劣勢となる。上杉氏と古河公方の足利晴氏らの大軍によって河越城が包囲される。氏康の兵は少なかったが連合軍と戦い勝利したという(河越夜戦)。この戦いで上杉朝定は戦死、上杉憲政や足利晴氏は敗走し勢力が衰えていき氏康は勢力を拡大していった。
1554年に今川義元武田信玄甲相駿三国同盟を結び今川義元の子の今川氏真に娘(早川殿)を嫁がせている。1561年に小田原城を上杉謙信によって攻められるが防衛した。今川義元が桶狭間の戦いで戦死して勢力が衰えた今川氏に対して武田信玄は外交方針を転換し今川氏真を攻めたことから武田信玄と対立する。氏康は上杉謙信と同盟を結ぶ。1569年に武田氏によって小田原が攻撃される。その後に撤退する武田軍と三増峠で戦う(三増峠の戦い)。この武田氏の侵攻に対して北条への上杉謙信の加勢はなかったようである。氏康は1571年に死去。その後に北条は武田氏と再度同盟を結んでいる。
氏康は内政(民政)にも力を注いでいたとされ税制改革をしたり小田原衆所領役帳を作成したりもしている。

<その他の情報>
足利学校で講義を受けている。歌も上手かったとされる。
今川氏真が駿河を失ってのちに今川氏真を北条に迎えている。

<家臣>
北条幻庵、北条綱成、福島勝広、松田憲秀、遠山綱景、大道寺政繁、板部岡江雪斎、風魔小太郎ら

<関連ワード>
河越夜戦(日本三大奇襲戦の一つといわれることも。夜戦でなかったという話もある)
第一次関宿合戦
三増峠の戦い



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