小早川秀秋

小早川秀秋(こばやかわ ひであき)。Kobayakawa Hideaki
生年1577、没年1602。安土桃山時代の武将。配下には稲葉正成がいた。
羽柴秀吉の養子となっていたが、秀吉に秀頼が生まれてから小早川隆景の養子となる。
秀吉の死後は豊臣秀頼が後を継いだ。その後の1600年に関ヶ原の戦いが起きる。この戦いに秀秋は当初は石田三成らのいる西軍に参陣していたが、東軍の徳川家康と通じ、東軍に味方し西軍の大谷吉継軍を攻撃した。それにより関ヶ原の戦いの流れは大きく変わった。戦後所領は加増・移封されたが21歳の若さで死去した。

<その他の情報>
・関ヶ原の戦いでは小早川秀秋は1万5千人もの兵を率いていたとされる。
・小早川秀秋がすぐに西軍に攻めかからなかったことから東軍の徳川家康は東軍に味方することを催促するために小早川軍に鉄砲を撃ちかけたという話がある(問鉄砲)。
・関ヶ原の戦いの前に吉川広家も東軍の徳川家康に内通している。

<諸説>
関ヶ原の戦いで松尾山に陣を張る前の段階から東軍と通じており、関ヶ原の戦い当日でも東軍として行動をしたという見方もある。関ヶ原の戦い後に小早川秀秋は加増されているが、関ヶ原の戦いの土壇場で西軍を裏切った大名たちには加増どころか減封や改易となった者たちもいる。

<私見>
問鉄砲について、仮に徳川家康の陣地から小早川秀秋の陣地まで鉄砲を撃ちかけたところで届くわけもない。仮にしていても戦闘開始の合図であったと考えられる。そもそも戦の最中に陣地から撃ってみたところで鉄砲の発射音すら聞こえていたか疑問である。
鉄砲の発射音が鳴ったとして、これは戦場から鳴ったもしくは戦闘が始まったときに鳴ったものと考えられる。戦闘が始まってすぐに東軍に内通している小早川秀秋は西軍を離反して東軍に味方をする行動をとったのかもしれない。
関ヶ原の戦いが始まる前から東軍に内通していた小早川秀秋は、関ヶ原の戦いが始まるとすぐに東軍に味方したと考えられる。仮に少しの間様子を見ていたとしても毛利秀元の様子を見ていたのではないか。鉄砲音は徳川家康からの戦闘開始の合図であった可能性がある。

<関連ワード>
金吾中納言
豊臣秀俊
問鉄砲



“小早川秀秋” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です