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徳川家康

徳川家康(とくがわ いえやす)。(Tokugawa Ieyasu)
生年1543、没年1616。戦国時代~江戸時代初期の戦国武将・大名。父は松平広忠。配下には酒井忠次本多忠勝井伊直政榊原康政、大久保忠世、服部正成、本多正信などがいる。

幼名は松平竹千代。松平家は織田氏と今川氏の間に挟まれた弱小勢力だった。幼少期に織田そして今川の人質として暮らした。人質状態のときに父の松平広忠は殺害される。織田信長に主君今川義元が討たれた後にその織田信長と同盟を結ぶ(清州同盟)。姉川の戦いで織田信長と共に朝倉・浅井連合軍と戦い勝利、三方ヶ原の戦いでは信長の援軍と共に武田信玄と戦うが大敗北。信玄の死後にその子の武田勝頼長篠の戦いで信長と共に戦い勝利。その後も各地で戦いながら領土を拡げる。
1582年に信長の招きに応じて安土城を訪れた後に堺にいた家康は、信長が京都で本能寺の変によって明智光秀に討たれたことを知る。非常に危険になった家康一行は服部半蔵がいたこともあり伊賀国を通ってなんとか帰国した(神君伊賀越え)。そして明智光秀討伐の軍を出すがその前に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は中国大返しで明智光秀を山崎の戦いで破ってしまっていた。本能寺の変後に一揆が起こるなどして織田配下が逃亡や死亡したりしていた甲斐国や信濃国が一種の空白状態のようになったために家康は進出。北条氏も進出し対立したが後に和睦となった。その結果、家康は甲斐国・信濃国を領有した。

織田配下の柴田勝家が秀吉に討たれる。その後に信長の次男の織田信雄が秀吉と対立するようになり、家康は信雄と組むことにする。小牧・長久手の戦いが起き、家康は信雄と共に戦う。森長可や池田恒興らを戦死させるが信雄は秀吉軍に攻められて講和してしまう。家康は秀吉に服属し次男の秀康を出した。秀吉は四国征伐や九州征伐をし、秀吉に未だ従わない北条氏がいる小田原攻めをする。家康はこれに従う。北条氏の降伏後には秀吉の命令で江戸などを含む北条氏の旧領に移封となり江戸城に入った。秀吉は奥州仕置を経て天下統一するが1598年に豊臣秀吉は五大老の家康や前田利家上杉景勝宇喜多秀家・毛利輝元らに遺言書をのこし死亡した。

1600年に豊臣氏の臣として上杉征伐の軍を率いて出征。家康が大坂を遠く離れたときに石田三成や大谷吉継らが兵を挙げ、家康を弾劾(総大将は毛利輝元となる西軍)。上杉征伐に動いていた黒田長政や福島正則らは家康に味方した(東軍)。そして家康ら東軍は関ヶ原の戦い石田三成宇喜多秀家らに勝利した。その結果、石田三成や小西行長を斬首、毛利氏を減封、敵対した上杉景勝を減移封、真田昌幸真田信繁(真田幸村)を蟄居にしている。
1603年に江戸幕府の初代征夷大将軍となった。1614年に大坂の冬の陣で秀吉の子の豊臣秀頼のいる大坂城を攻撃し、翌年に大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした。豊臣秀頼や淀殿は死亡。
家康は1616年に死亡。死後は東照大権現として神格化された。三男の徳川秀忠が後を継いだ。孫は三代将軍の徳川家光ら。

<その他の情報>
今川義元のところでの人質生活のときに太原雪斎に師事したという話があるが真偽不明。
三方ヶ原の戦いでは武田信玄に敗れ危ういところを家臣に救われている。
家臣の本多忠勝が織田信長に褒められている。
1600年にウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗るリーフデ号が豊後国に漂着する。家康は厚遇した。

<子供>
長男:松平信康
二男:結城秀康
三男:徳川秀忠(家康の後を継いで二代将軍になった。)
四男:松平忠吉
五男:武田信吉
六男:松平忠輝
七男:松平松千代
八男:平岩仙千代
九男:徳川義直
十男:徳川頼宣
十一男:徳川頼房
(とりあえず男子を列挙)

<関連ワード>
江戸幕府征夷大将軍
三英傑織田信長豊臣秀吉、徳川家康)
江戸城
武家諸法度
禁中並公家諸法度
徳川御三家
村正(刀工・刀剣)

<関連映像作品>
徳川家康 (NHK大河ドラマの主人公
葵 徳川三代 (NHK大河ドラマの主人公

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