榊原康政

榊原康政(さかきばら やすまさ)。生年1548、没年1606。戦国時代から江戸時代初期の人物。徳川四天王に数えられた。徳川十六神将の一人。徳川家の重鎮となる。上野国館林藩の初代藩主でもある。子は榊原康勝ら。
今の愛知県豊田市のあたりの出身。幼名は亀丸。小平太。

父は榊原長政。13歳で松平元康(のちの徳川家康)の小姓となる。三河一向一揆では徳川家康に味方し戦う。これにより家康から「康」の字を与えられたという。1570年の織田信長・徳川家康連合軍と朝倉・浅井連合軍の戦いである姉川の戦いでは側面攻撃をし功を上げる。徳川家康と武田信玄との戦いである三方ヶ原の戦い、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦いである長篠の戦いでも活躍した。小牧・長久手の戦いでも活躍し羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の甥の羽柴秀次らを破っている。この戦いにより羽柴秀吉方の森長可や池田恒興が戦死している。
1590年の豊臣秀吉による北条攻め(小田原征伐)にも徳川家康に従って参加している。小田原征伐後に徳川家康は関東に移封となる。康政は関東総奉行となった。上野国館林10万石を封じられた。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康の子の徳川秀忠の軍に従軍している。秀忠軍は中山道を通って進んでいたが真田昌幸らの守る上田城攻めでは苦戦する(上田合戦)。家康から急ぎ来るようにとの使者が遅れたために関ヶ原の戦いに遅参してしまう。後に江戸幕府の老中となる。1606年に死去。

<その他の情報>
徳川家康の長男の松平信康に対して諫言したことがある。信康は康政を弓で射ようとしたが康政の諫言に従ったという話がある。
小牧・長久手の戦いのときに豊臣秀吉を糾弾する檄文を書いたため羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を大いに怒らせて康政の首をとれば10万石与えるとまで言われたという。秀吉と家康の和睦後の使者となり、秀吉から歓待を受けたとされる。
関ヶ原の戦いではこの戦いに遅参した徳川秀忠をかばい遅参の責任を負った。そして当初秀忠と会わなかった家康と秀忠の対面がかなった。秀忠は榊原康政に大いに感謝したという。
関ヶ原の戦い後に家康は榊原康政に加増をしようとするが康政は断ったという。
「老臣、権を争うのは亡国の兆なり」と言い、政治の中枢の権力争いの舞台から離れたという。
2018年も「榊原サミット」という豊田市、上越市、館林市、姫路市の市長が集まるものが行われている。意見交換会などがされているという。

<関連ワード>
徳川四天王
徳川十六神将
徳川三傑
「老臣、権を争うのは亡国の兆なり」
「紺糸威南蛮胴具足」「黒糸威二枚胴具足」を所有していた
榊原サミット

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
武功を挙げていることからか武力・統率の高い人物として描かれることが多いか。



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