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毛利元就

毛利元就(もうり もとなり)。(Mouri Motonari)。
生年1497、没年1571。戦国時代の安芸の国の武将・大名。子供には毛利隆元吉川元春小早川隆景などがいる。
尼子と大内という強大な勢力に挟まれた国人領主の一人。勢力は小さかったが策略などを駆使し少しずつ勢力を拡大。大内義隆 厳島の戦いで陶晴賢を倒す。尼子氏や大友氏などとも戦い、数々の戦いを経て毛利家を中国地方の強大な勢力とした。長男の毛利隆元が早死にしていたため死後は孫の毛利輝元が後を継いだ。

<詳細>
母は毛利元就が生まれてすぐに死亡、父の毛利弘元も元就が10歳の頃に死亡する。兄の毛利興元もまた1516年に若くして死亡。兄の子の毛利幸松丸が毛利家の後を継ぐも年少のために元就はその後見となった。その状態をみて武田元繁が侵攻してくる。元就は幸松丸の代理として出陣するがこれが初陣であった。そして熊谷元直と武田元繁を討死させ勝利した(有田中井手の戦い)。この後に毛利氏は大内氏から尼子氏についている。
幸松丸は9歳で死亡してしまい元就は27歳で家督を継いだ。異母弟の相合元綱が尼子経久と謀り元就に抵抗した。この後に尼子経久傘下から大内義興の傘下になる。高橋氏を討滅し各勢力と好を通じるなどして勢力を拡大していった。
1540年に尼子詮久の率いる3万の兵がが元就の吉田郡山城を攻めた。このとき元就は3千の兵で戦い、大内氏の陶隆房(陶晴賢)らの援軍もあり勝利した(吉田郡山城の戦い)。この後に大内義隆は尼子氏の月山富田城を攻め元就も従軍するが敗退し元就も危ういところを家臣の働きもあり助かっている。
竹原小早川氏に三男の隆景(後の小早川隆景)を養子に出した。吉川家の吉川興経の求めにより元就は次男の元春(後の吉川元春)を養子に出した。毛利家の家臣で専横をしていた井上元兼を滅ぼした。
大内義隆が家臣の陶晴賢によって殺害されて養子の大内義長が擁立される。陶晴賢の謀反を元就は同意しており佐東銀山城などを手中にしている。大内義隆派を倒して勢力を拡大していくが陶晴賢に警戒される。尼子晴久が新宮党の尼子国久を粛清する事件が起こった。元就は陶晴賢と戦う。1555年、村上水軍が毛利方についたこともあり厳島で毛利軍は陶晴賢の軍勢に勝利した(厳島の戦い)。尼子晴久の軍勢に忍原で敗れて石見銀山は尼子氏のものになった(忍原崩れ)。毛利軍は大内義長を攻撃して大内氏の領土の多くを手に入れた。尼子氏のものになっていた石見銀山を入手しようと攻撃するが敗北した(降露坂の戦い)。
尼子晴久が急死し尼子義久が後を継いだ。元就は尼子氏の月山富田城を攻撃する(第二次月山富田城の戦い)。尼子氏との戦いは何年も続くがこの間に元就の長男で毛利家当主の毛利隆元は死亡している。1566年に月山富田城の尼子義久は降伏した。しかし、尼子勝久と山中幸盛らが織田信長の支援を受けて毛利軍に抵抗した、また、大友宗麟との争いも起きていた。1571年に吉田郡山城にて死亡した。嫡男だった隆元が死亡していたためにその子の毛利輝元が後を継いだ。

<その他の情報>
毛利元就は家族関係を重視していたようで、三子教訓状という教訓が書かれた長い書状を書いている。

<関連ワード>
逸話・・・三本の矢
三子教訓状
吉田郡山城の戦い(歴史に残る山城の戦いの一つ)

<関連映像作品>
毛利元就 (NHK大河ドラマの主人公

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
非常に高い知力を持つ謀将として描かれることが多い。ゲームによっては知力ステータスが最高であることも。

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