石田三成(いしだ みつなり)。生年1560、没年1600。戦国時代~安土桃山時代の武将。配下には島左近がいる。
長浜城主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕官。槍働きよりも奉行としての仕事や軍需物資の調達や輸送など後方支援などに大きく貢献した。秀吉の死後、加藤清正や福島正則らとの対立が深まっていき、徳川家康による私的婚姻計画の動きが出てくる。五大老の一人であった前田利家が死亡すると清正、正則ら七将によって三成が襲撃される事件が起こる。徳川家康が上杉景勝討伐に出ると三成らは家康を弾劾する書状(内府ちがひの条々)を諸大名に送付。三成らの挙兵を知り戻ってきた徳川家康、福島正則ら東軍と関ケ原で戦った(関ヶ原の戦い)。戦いに敗れた三成は逃亡するが捕まり処刑された。
<その他の情報>
関ヶ原の戦いでは石田三成は大垣城を本拠地としたとされる。
<関連ワード>
五奉行
大一大万大吉(旗)
三杯の茶
内府ちがひの条々
関ヶ原の戦いでは西軍に属する(石田三成は関ヶ原の戦いでは西軍に属した)
佐和山城(石田三成の居城)
<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
政治力が高いが人気がない武将として描かれることが多いようだ。