サイトアイコン YOU GET YOU DICTIONARY

豊臣秀吉

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(Toyotomi Hideyoshi)
(生年1537年?、没年1598年)戦国時代~安土桃山時代の戦国武将。
正室はおね(北政所)、側室は淀殿(淀君)ら。子は鶴松、豊臣秀頼ら。
配下には福島正則、加藤清正、石田三成、大谷吉継ら(全国統一しているので非常に多数)。
木下藤吉郎と名乗る。今川義元に従っている武将に仕えたが、その後に織田信長に仕える。小者として仕えたが普請奉行や台所奉行などを引き受けて結果を出し徐々に名を上げていった。桶狭間の戦い後に浅野家の養女のおねと結婚する。1564年からの斎藤龍興の治める美濃攻略でも活躍。蜂須賀正勝らを配下に入れている。斎藤氏の滅亡後に竹中重治(竹中半兵衛)が与力につけられた。

信長の朝倉氏討伐に従軍するが、途中で信長の妹のお市と結婚していた浅井長政が信長に反旗を翻す。織田軍は挟み撃ちにされ危機に陥るが、秀吉は明智光秀らと共に殿(しんがり)をして織田軍は窮地を脱した(金ヶ崎の退き口)。1572年に羽柴秀吉を名乗る。浅井氏攻略後はその旧領を与えられてそこにあった今浜の地を長浜と改めて長浜城の城主となった。石田三成らがこの頃に登用されている。1575年には信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が戦った長篠の戦いに従軍した。
上杉謙信と戦っていた信長配下の柴田勝家の救援をすることになるが勝家と仲たがいをして勝手に帰還してしまい、信長に激怒される。
1577年頃に信長に中国地方攻略(毛利氏の勢力を攻める)を命ぜられて進軍。黒田孝高(黒田官兵衛)より姫路城を譲られる。宇喜多直家を服属させたり、三木城や鳥取城を兵糧攻めにする。1582年に清水宗治のいる備中高松城を攻撃し水攻めにした。しかし、この最中に信長が本能寺の変明智光秀に討たれたことを知る。秀吉は中国大返しにより急ぎ戻り明智光秀を山崎の戦いで倒した。明智光秀は落ち武者狩りにあり死亡した。

同年に信長の後継者や遺領分割などを決める清須会議が開かれて柴田勝家が信長の三男の織田信孝を推したのに対して秀吉は信長の長男の織田信忠の長男の三法師(織田秀信)を推した。会議の結果は三法師が後継者となった。その後、秀吉は信孝と戦う。岐阜城に孤立した信孝は和議を求め成立する(が後に挙兵)。秀吉は柴田勝家と戦い勝利した(賤ヶ岳の戦い)。前田利家は勝家についていたがそれを裏切って秀吉についた。勝家は北ノ庄城にて信長の妹で勝家の正室となっていたお市と共に自害した。そして信孝も自害に追い込んだ。滝川一益も秀吉に降伏し、秀吉は織田一族を除く織田家臣で名実ともに最高勢力となる。
1583年に大坂城にを築き始める(総奉行は黒田孝高)。秀吉の命令に反発した織田信雄は徳川家康と組み、長宗我部元親もまた反秀吉勢力として動いた。秀吉軍は信雄・家康連合軍と戦う(秀吉軍は10万、信雄・家康軍は3万だったという)。家康は小牧に布陣、秀吉についていた池田恒興や森長可らを攻撃して戦死させた(小牧・長久手の戦い)。しかし秀吉軍は信雄の領土を攻略したため信雄は秀吉と講和・家康もまた秀吉に次男(結城秀康)を出した。

1585年に内大臣となった秀吉は紀州征伐、四国攻めをし勝利して領土を拡張。その後、関白宣下を受ける。そして秀吉の敵対勢力だった越中の佐々成政を攻撃し降伏させた。1586年に豊臣の姓を正親町天皇から賜る。この年に家康には妹の朝日姫を嫁がせたり母親を送るなどしている。家康は上洛して秀吉に従った。九州で大きな勢力となっていた島津義久におされていた大友宗麟は大坂の秀吉のもとに来る。秀吉は停戦命令に従わなかった島津を大軍をもって攻めて九州を平定した。北野で大茶会(北野大茶湯)を催す。関東や奥州に対して惣無事令を出す。1588年に聚楽第に後陽成天皇を迎える。1589年には鶴松が生まれる。
1590年に北条氏の征伐を開始して20万もの大軍で北条氏の小田原城を攻めた(小田原征伐)。北条氏康の子供の北条氏政らは抵抗するも後に降伏した。伊達政宗も遅ればせながら小田原に参陣した。奥羽の仕置(奥羽仕置)をするが、同年に一揆がおき翌年に平定された。全国統一。弟の豊臣秀長や子の鶴松が死去してしまう。甥の秀次に関白職を譲った。秀吉は前の関白となったために太閤と呼ばれる。千利休に自害を命じた。
1591年に文禄の役。1593年に豊臣秀頼が生まれる。1595年に秀次に謀反の疑いが出、秀次は後に切腹。1596年にサン=フェリペ号事件が起き禁教令を出した。1597年には慶長の役。
1598年に醍醐の花見をする。徳川家康・前田利家・宇喜多秀家上杉景勝・毛利輝元などの五大老などに遺言書をだし1598年8月18日に死去した。

<その他の情報>
足軽か農民の子供という話もあるが、出自ははっきりとはしていない。出生年も1536年か1537年かはっきりしてはいない。
幼名は日吉(丸)という話もある。
羽柴という名字は、丹羽長秀と柴田勝家の名字から一字ずつもらったという。
大坂城の築城中に小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康連合と戦っている。
太閤検地、石高制、刀狩令、惣無事令など各政策を出している。
側室は多いが、その数に比して実子は意外と少ない。
織田信長の四男の羽柴秀勝が養子にいる。
徳川家康の二男の結城秀康が養子にいる。
織田信長の妹のお市の娘(茶々、初、江)を養女としている。
豊臣秀頼は茶々(淀殿)が産んだ。
大谷吉継の娘も養女としている。この娘は真田信繁(真田幸村)の正室となっている。
逸話は多い。

<諸説>
本能寺の変の黒幕という説もある(真偽不明)。

<関連ワード>
三英傑織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
人たらし
墨俣一夜城
二兵衛(竹中半兵衛、黒田官兵衛
五大老(徳川家康前田利家上杉景勝小早川隆景宇喜多秀家、毛利輝元、前田利長)
五奉行石田三成ら)
木下藤吉郎(豊臣秀吉が羽柴秀吉を名乗る前の名前)
羽柴秀吉(豊臣秀吉が豊臣の姓を賜る前の名前)
羽柴筑前守秀吉、筑前
懐中の草鞋(信長の冷えた草履)の逸話
近江の国の長浜城の城主。
文禄の役・慶長の役

<関連映像作品>
太閤記 (NHK大河ドラマの主人公
秀吉 (NHK大河ドラマの主人公

モバイルバージョンを終了