張遼

(ちょうりょう)。字は文遠(ぶんえん)。子は張虎。中国後漢末期から三国時代の武将。
丁原に仕えていたが、董卓の配下になり、董卓死後は呂布の配下となった。曹操による呂布の処刑後は曹操に降伏して従った。曹操の下で各地を転戦し活躍。曹操の下に劉備配下の関羽がいたときには親交があった。北方での戦いの後は孫権軍と合肥で対戦し少数の兵で攻撃し孫権を退却させる。それを知った張遼は追撃し孫権軍をさらに打ち破った。孫権は配下の凌統の決死の防戦で危ういところを助かったという。曹操死後は後を継いだ曹丕に従う。曹丕は張遼が病になったとき見舞いをしている。後に病気が重くなり死亡した。

<その他の情報>
正史と演義では死亡した原因などが異なっている。演義の方では呉征伐による負傷により死亡している。

<三国志演義では>
呂布が処刑される際に曹操に命乞いをする呂布を一喝している。張遼本人は曹操に気に入られその配下となっている。曹操軍で活躍するが袁紹軍配下の猛将である文醜には苦戦している。関羽が曹操の下から去るときに関羽は夏候惇に追撃されるが張遼が曹操の命令を伝えて戦いを止める。赤壁の戦いでは曹操に従うが火攻めに遭う。追いかけてきた孫権配下の武将である黄蓋に矢を射て負傷させる。その後の合肥の戦いでは孫権軍相手に対抗。孫権配下の太史慈を戦死させるなど孫権軍に打撃を与えている。曹丕の呉征伐に従うがそのときの戦いで負傷。その傷が原因で死亡した。

<関連ワード>
三国志の三国(蜀漢
三国志演義
合肥の戦い
遼来来(遼来遼来)

<世に出ているゲームなどの作品での扱い>
曹操配下の勇敢な名将として扱われることが多いか。



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